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加藤和彦さんの死に寄せて
Oct. 17, 2009
かとうかずひこ


加藤和彦さんが何故首を吊らなければならなかったのか、わからない。先月20日に静岡県掛川市で行われた「南こうせつ サマーピクニックフォーエバー in つま恋」では、加藤和彦さんは元気に、にこやかに歌っていた。


「サマーピクニック」NHK BS hi 生放送のディレクターとして、私が南こうせつさんと打ち合わせした際、今年還暦を迎えたこうせつさんは言っていた。「ぼくらと同世代の人たちの自殺が増えているらしい。それは、人が、人らしさを失っているからかもしれない。顔と顔を突き合わせて、目と目を合わせて、直に触れあって通じ合うのが、人だ。『サマーピクニック』は、人が、そんな『人らしさ』を取り戻す場所なんだ。」「『サマーピクニック』は、ぼくが作るんじゃない。そこに集まるお客さん達が作ってきたんだ」と。十数年ぶりに再会したこうせつさんの顔には、それなりの年輪が刻まれていたが、彼の生き生きとしたメッセージは昔と変わらなかった。

そんな「サマーピクニック」のメッセージは、加藤和彦さんには伝わらなかったのだろうか?ほんの4週間前、同世代の人々をも多数含む2万人のお客さんを前にし、十数組のアーティストと共に並んで「あの素晴らしい愛をもう一度」を歌った人が、何故自殺を選択しなければならなかったのだろうか?ステージから見えるお客さん達の顔は、余りにも小さ過ぎて、見えなかったのだろうか?それぞれの人生を生きてきた、互いに見ず知らずの人々が集まって、ひとつの唄を共に歌う、そのエネルギーをもってしても、自ら死に向かおうとする人を踏み止まらせることすらできないのだろうか?

せめてあと1日、待てなかったのだろうか?今日の夕方ごろまで、死の選択を、待ってもらえなかったのだろうか?

自ら死を選ぼうとする人の心の闇は、計り知れないほど暗いのかも知れない。40年以上にも渡って常に新しいものを創造し続け、常に新しいものを創造し続けることを自らに課したアーティストの背負った十字架の重さに較べれば、テレビなんて…テレビのちからなんて、綿埃のようなものかも知れない。でも、以下のような望みを抱くのは、間違いだろうか?

先月20日の「サマーピクニック」生放送の際、加藤和彦さんのパフォーマンスは、大河ドラマ放送に伴う生放送中断時間帯に行われた。生放送に乗らなかった加藤和彦さんのライヴは、今日の13時からの録画総集編の放送で、初めてオンエアされる。死のうとするアーティストが、自分の出演番組のオンエアチェックなど、しないのかも知れない。しかし、軽井沢のどこかでたまたま目にして…ステージからはよく見えなかったかも知れないお客さんの嬉しそうな顔を間近で捉えた映像を見て…自分の立ち位置からはよく見えなかったかも知れない他の出演者たちが、「あ・の・す・ば」というカウントで自分の曲を共に演奏し、共に歌う顔を見て…そういえばあの日は天気良かったな、って思って…

「もうすこし、生きてみようかな。」って、思ってもらえたかも知れない。そう妄想するのは、間違いですか?何故私は、あなたのLiveを撮った最後のディレクターにならなければいけなかったのでしょう?何故、せめてあと1日、今日の夕方ごろまで、待ってもらえなかったのでしょう?あなたと、あなたの仲間達の映像を、何故、せめて見届けてくれなかったのでしょう?


私は、加藤和彦の死に寄せて、彼のレコードをかけたりしないし、今日のオンエアも見ない。喪に服するには、加藤和彦の創ってきた音楽は、余りにも音楽的インスピレーションのきらめきに満ち過ぎているし、あのつま恋の空は、余りにも明る過ぎる。