2006年5月7日日曜日、ロンドン、現地時間の午後3時。アーセナルの過去を象徴し、未来を左右する重要なふたつの試合の、開始を告げるホィッスルが、同時に吹かれた。イングランド プレミア・リーグ最終節、アーセナル v. ウィガン・アスレティック、そしてウェスト・ハム・ユナイテッド v. トッテナム・ホットスパーである。
北ロンドン ハイベリーのアーセナル・スタジアムを埋め尽くしたホームチームのサポーター達は、“I was there” (「私はその場にいた」)と書かれた赤と白のTシャツを着用し、この歴史あるスタジアムの最後の日を記念した。ウィガンのサポーター達も、同じメッセージが書かれた青いTシャツを着て、この日の意味を、クラブを越えて共有した。一方、東ロンドン アップトン・パークのブリン・グラウンドに押しかけたトッテナムファンが着ていたシャツには、今日の試合の結果如何に関わらずアーセナルがCLで優勝したらトッテナムは来季出場枠から押し出されるから自分達はバルセロナを応援する旨の文言が書かれていた。今思えば、これら両者のファン達の魂の在り方と態度の差が、フットボールの神様の意志決定に影響したのかも知れない。
対するウィガンのプレイスタイルは、以前と同様である。ディフェンスラインにデ・ゼーウを欠くものの、相変わらずきちんとしたポゼッションを心掛け、丁寧に前線に運ぼうとする。アンリ・カマラやジェイソン・ロバーツに持たれると危険だ。しかしアーセナルの気合いは充分、アンリーはこの日も頭を綺麗に剃っている。いつものように、立ち上がりのアンリーは前線に張り、後方からの長いパスを待っていた。
一方、ウェスト・ハムも押し気味に試合を進めていた。37節終了時点で10位のウィガンと1ポイント差の9位、とは言え今季のウェスト・ハムはFAカップ ファイナリストである。しかもホームゲーム。前日、ヴェンゲル監督が「トッテナムに負けるようなことがあったら、ウェスト・ハムはFAカップでも負けるだろう」と言ったのは、余計なお世話だったかも知れない。でも、お願いだから、絶対に負けないで、ハマーズ!
ふたつの試合を通じて、初めてスコアが動いたのは、ハイベリーの前半8分だった。右コーナーキックからの流れで右のファブレガスから入ったクロスが弾かれ、キャンベルへ。シュートだったのかもしれないが、キャンベルがゴール左を狙ってヘッドで落としたボールは、6ヤードボックス内のピレスへ。ピレスの放ったシュートはブロックされるが、リフレクションをもう一度右足ハーフヴォレーで、ゴール左下隅に押し込む。前のウェストブロム戦の2点目にも似た、ピレスらしいゴールである。
ハイベリーが歓喜に包まれたこの瞬間の約1分後、アップトン・パークにも、丁度タイミングを計ったかの様に、ゴールが生まれる。カール・フレッチャーの右足が、相手陣内30ヤード左寄りからゴール右下隅に決まる、目の覚めるようなミドルシュート。「ウェスト・ハム先制」のこの速報は、ハイベリーにも瞬時に伝わった。レッドゾーンに達しようとする大歓声が、それを物語っていた。
しかし、その一瞬後、アーセナルファンは冷水を浴びせられる。自陣右でトゥーレが、相手MFマカロックからボールを奪い、エブーエへ。背後から来るマカロックのチャージをガードしようとして出したエブーエの右肘が、マカロックの顔面をヒットしたらしく、ファウルを取られる。フリーキックをトンプソンが蹴ると、ボールはディフェンスライン裏中央に向かって急激に落下、ニアサイドに飛び出してきたシャーナーの右足に合い、失点する。浮き球とヘッドを警戒し、足への注意を怠った報いである。ウィガンというチームは、セットプレイでもきっちりと味方の足元をターゲットとする練習を積んでいる。この事は、昨年11月の同カードで判っていたはずだ。
その後はお互いに一歩も退かない攻撃を続ける。アーセナルは19分、左のスペースに出されたレジェスのスルーパスにピレスが追い付いてワントラップし、GKポリットと1対1となるが、左足から放たれたシュートは、惜しくも左サイドネットを叩く。27分には、相手ゴール前でのアンリーのポストプレイから出されたヒールパスに反応したジウベルトが、決定的なタイミングでシュートを放つが、ボールはバーを越える。そして、その5分後、一歩前に出たのは、ウィガンだった。
33分、自陣右36ヤードでジウベルトがファウルを取られ、またもやトンプソンのFK。壁をフレブ1枚とし、今度は相手の足も頭も許さないように、アーセナルの選手達は、ファーサイドを中心に位置する相手のマーキングに集中する。が、この距離からトンプソンは、ニアに直接ゴールを狙った。ボールはまたもや急降下し、ゴール左下隅に決まって、1-2とされる。レーマンの判断ミスもあるが、元ブラックバーンのこのデイヴィッド・トンプソンは、こんなに凄いフリーキッカーだったのか。プロファイルでは身長1.70mとなっているが、はるかに大きく見える。その約1分後、アップトン・パークではトッテナムのデフォーがキャリックからのクロスを受けて右足で決め、同点とする。アーセナルの運は、トンプソンのFKの軌跡とともに、急降下したかに思われた。静まり返るハイベリー。
しかし、希望を取り戻してくれたのは、やはりこの人達だった。35分、相手陣内40ヤード中央でマカロックからボールを奪ったフレブから、左寄りのピレスへ。ダイレクトで、前線ほぼ中央のアンリーへ。バックラインをオンサイドで抜け出したアンリーは、右足インサイドでゴール右隅に決める。ピレス→アンリーのホットライン。このクラシックなゴールは、まさにハイベリーに似つかわしい。
アーセナル 2-2 ウィガン。ウェスト・ハム 1-1 トッテナム。ふたつの試合のスコアは振り出しに戻ったまま、前半を終えた。ここでもう一度、状況を整理しておこう。現在4位のトッテナムと5位のアーセナルの差は、1ポイント。もしポイントが並んだ場合は、得失点差35でトッテナムの16を上回るアーセナルが、4位を奪い取る。
前半のアディショナルタイムがほとんど無かったウェスト・ハム対トッテナムの試合の後半は、ハイベリーよりも2分程早く始まった。前半、焦りの見られたアーセナルは、後半立ち上がりには落ち着きを取り戻していたが、ゴールは早々には生まれない。ハイベリーの51分頃、アップトン・パークのサモラがタイーニィオに倒されて、ウェスト・ハムはPKを得、ハイベリーの観衆は沸き立つが、キッカーのシェリンガムが右に放ったPKは、右に飛んだロビンソンによって止められる。まるで、リケルメのPKをレーマンが止めたように。
しかし、その5分後、ハイベリーで、信じられない事が起こる。ウィガン陣内、シンボンダから右サイドのトンプソンへ。トンプソンはCB右のシャーナーへバックパスするが、これが中央に少しずれ、シャーナーはその場に立ち尽くす。ボールは前線のアンリーへと渡る。飛び出すGKポリット。アンリーはこれを右に躱してワントラップし、後ろから必死で追い付こうとする相手をちらっと見てから、無人のゴールへ落ち着いてボールを蹴り込む。アーセナルから2ゴールを奪ったウィガンのプレイヤー2人の、信じられないミスである。
これで再び、アーセナルはリードを奪った。しかし、ウェスト・ハムがさらなる失点をし負ければ、元も子も無い。この時点で、全世界のアーセナルファンは、ウェスト・ハムがこれ以上失点しない事、さらには勝ち越しゴールを決める事を、祈った。勢いの増したアーセナルは、再三、ウィガンのゴールを脅かすが、追加点は生まれない。
66分、中盤左での見事な足技でトンプソンからボールを奪ったファブレガスから、中央のピレスへ。直前のアンリーにパスが出されるが、一瞬のタイミングの遅れでオフサイドポジションに取り残されたアンリーは、動かず、頭を抱える。しかしピレスは、そのパスが「一瞬後の未来の自分へのパス」であるかのようにボールを追い、GKと絡む。弾かれたボールにアンリーは追い付き、6ヤードボックス左から中央のピレスへクロス。しかし、シンボンダが猛然と追い付いて、カットする。アンリーはシンボンダに両手でハイタッチして、この同郷の、才能ある相手右サイドバックの好プレイを讃えた。パスカル・シンボンダ。私は以前、この選手を、良い選手だと書いた。アンリーも当然、シンボンダが素晴らしい選手である事をを知っている。
73分、ウィガン監督のポール・ジュエルは、失意のトンプソンに替えて、ヨハンションを投入する。続く74分、こちらはピレスに替えてリュングベリ。この、ふたりのスウェーデン人の登場が、その2分後、両チームの明暗を分けることとなる。76分、相手陣内30ヤード、レジェスのFKを、前線のキャンベルがヘッドでアンリーへ落とす。ワンバウンドして跳ねたボールを、胸と右足でリフティングしたアンリーは、そのままボールを地面に付けずに、ゴール前6ヤードのリュングベリへ。マークに付いていたヨハンションは、リュングベリの右手を引張り、倒す。ウィガンはペナルティを課せられ、ヨハンションは、登場たった3分で、一発退場となった。PKを蹴るアンリーは、助走を長く取り、シェリンガムとは異なり、右足インサイドで冷静にゴール左隅に決める。アンリーは、ピッチに跪いて芝にキスし、この懐かしいスタジアムの地面に、別れを告げた。リーグ最終戦、4位争奪戦、ハイベリーの最終戦でハットトリックを達成。シーズン前半を欠場したにも関わらず、27ゴールで得点王の座を得るこの男を、「神の子」と呼んだ私は、やはり間違ってはいなかった。
さぁ、2点リードである。アーセナルが負ける可能性は低くなった。あとはウェスト・ハムの健闘を祈るばかりだ。79分、フレブとレジェスに替えて、ベルカンプとファン・ペルシーが投入されるが、その瞬間、またしても、そのタイミングを計った様に、アップトン・パークでスコアが動く。レオ=コウカーのアシストから、ベナヨンの左足が、トッテナムから再びリードを奪う。この事実を知ったハイベリーの大歓声を、ベルカンプは当初、自分に向けられたものと思ったかも知れないが、観衆の喜び方が異質であることに気付いたアンリーは、スタンドに向かって、両手の指で「2-1 ?」と問いかけ、その答えを得た。
思えば、歓喜と不安、希望と失望が、数分置きに目まぐるしく入り乱れる、ローラーコースターのような筋書きであった。しかし、80分以降、アーセナルは怒濤の攻撃を見せ、ウィガンの足は止まった。ふたつの試合の残り時間が減るに連れ、ウィガンが3点取る可能性と、トッテナムが2点取る可能性が減少して行き、それらの数値に反比例して、アーセナルの歓喜は増大した。89分、右サイド中盤のアンリーから前線のファン・ペルシーへ。絶妙な飛び出しを見せたジウベルトはボールを受け、キーパーを躱すが、一瞬バランスを崩してスローダウンした為、右バイライン際から出したベルカンプへの決定的なパスは、カットされてしまう。悔しさを最大限に表現しながら仰向けにピッチに倒れ込むジウベルトの表情には、しかし、笑みがこぼれていた。
アーセナル 4-2 ウィガン。2分のアディショナルタイムを経て、このスコアのまま、ハイベリーの試合は終わった。その約1分後、4分のアディショナルタイムを経たアップトン・パークの試合のファイナル・ホィッスルは吹かれた。ウェスト・ハム 2-1 トッテナム。この瞬間、アーセナルの4位、次季CL圏内が確定した。結果的にトッテナムは、UEFA チャンピオンズ・リーグ決勝でのアーセナルの勝敗を、気にする必要は無かった。
この記念すべき試合を戦う相手として、ウィガン・アスレティックは、最高の好敵手だった。前述の66分のシーンが、それを象徴している。ウェスト・ハムも、よくやった!我々、全世界のアーセナルファンは、FAカップ決勝戦、全力を挙げて君たちを応援するだろう。プレミアリーグを優勝したとかいうどこいらのチームのファン達は、我々が味わったこの歓喜を上回る何かを、味わったのだろうか?しかも、我々の2005-2006シーズンは、まだ終わってはいない。
この日に起こった全ての事が、ハイベリー最後の日に相応しかった。ボブ・ウィルソン、チャーリー・ジョージ、マイケル・トーマス、リー・ディクソン、イアン・ライト等といった往年のアーセナルの英雄達も、この記念すべき場に座を連ねた。試合終了後に行われたセレモニーでは、ブラスバンドが、アンドレア・ボチェッリとサラ・ブライトマンによるあの名曲 “Time To Say Goodbye (Con Te Partiro)” を奏で、ザ・フーのヴォーカル、ロジャー・ダルトリーが、“Highbury Highs” という曲を歌って、この歴史あるスタジアムを送った。この日、スタジアムに入れなかった人達もアヴェニール・ロードを埋め尽くし、アヴェニール・ロードに行けなかった私達の心も、ハイベリーに飛んでいた。さようなら、ハイベリー。
そう。私達の魂も、確かにそこに在ったのだ。この日、アーセナル・スタディアムに席を占められなかった私達にも、是非、こう呟く事を許して欲しい… “I was there” と。