-- shun
私は朝日新聞読まないので、天声人語の件は知りませんでした。ご紹介ありがとう。ご指摘(=「…ますぜ」)の通り、「『誤読』そのものと同一視されるようになった」という私の記述を、タイムリーに実例化してくれていますね。
ところで、shunくんが書いている「今朝の天声人語がデリダのこと書いてます」という文を、「今朝の天声人語でデリダのことが書かれています」などと朱正してはいけない。
「天声人語」は人ではないから「書く」という動詞の主語にはならない、実際には「なんの誰某さん」が「天声人語」というコラムに於いて書いている、という常識のなかに、普段我々はいる。ところが、デリダが解体するのはまさにこの「常識」である。
もし「天声人語」が、たとえば深代惇郎という名前の人の署名記事であったなら、どうか。誰もが迷わず「深代惇郎が 今朝の天声人語でデリダのことを書いている」と書くだろう。このとき我々は、「深代惇郎という名前の人が、考えたことを、(天声人語という題名のデイリーコラムに相応しい)テクスト化する」という、主客のモデルを想定する。テクストの末尾かどこかに「深代惇郎」という、人名らしき文字列があるだけで、我々のこの想定は容易となる。逆に、もしこの「署名」が無ければ、それは我々読者に対して、「テクスト化」という行為の主体の不在、或いは不明、或いは非特定を意味する。
我々の、この「人が、考えたことを、テクストにする」「人の考えたことが、テクストになる」という想定における、「主体」の、何と朧げなことか。「名前らしき文字列」の有る無しで揺らぎ得る、この「主体」の、何と不安定なことか。ところが、デリダにとってこれらは当然のことである。何故なら、「紙に記され得ない『人』『人が考えたこと/言いたかったこと』が、テクストの主体としてあるはずだ、あるに決まってる」という前提自体が、間違っているからだ。「テクストでないもの」がテクストを生み出すのではない。テクストの主体は、既に「テクスト」である。「テクスト外 なるものは存在しない」。「主体」が深代惇郎(或いは深代惇郎の内面、概念、思念)であっても、それは既に、そして本質的に、「テクスト」なのである。むしろ「天声人語が書く。」という言説は、この本質をより明示したものと言える。
「『本物』がどこかに在って、それがテクストという『(本物に近い)偽物』の形をとって伝達される」という想定は転覆される。「本物」は既に「偽物」で、「本物」は無いのだから、「偽物」は全部「本物」だ --- デリダの哲学をこのように理解することは間違いではない。しかしながら、これはデリダの「出発点」でしかない。ここで止まるとしたら、それは「破壊(destruction)」に止まることである。さらに重要/不可欠なのは、従来「偽物」であると考えられてきた全てのものを「本物」として、一から読み直し、「再構築」することだ。この作業には、超人的なほど正確で周到で徹底した「読み」の能力が要求される。世界と歴史をひとつの新しい「書物」として再編纂する能力が要求される。
気の遠くなるような作業である。しかしデリダは、この作業を、我々に遺した。「誤読、大いに結構。」みたいな、考えたくない人/楽したい人にとって都合の良い、これらの人を「許す」類いのセリフから、デリダは最も離れたところに在るのだ。