大好きな指揮者のひとり、カルロス・クライバー Carlos Kleiber 氏が亡くなった。
指揮者は、大オーケストラを前に、様々な身振り手振りを行う。聴衆の中には、指揮者があの手振りによってオーケストラをコントロールし、あたかも演奏家が楽器を奏でるようにオーケストラをリアルタイムに「奏でて」いると思っている人が多いが、実際はそうではない。
指揮者の仕事の9割は、リハーサルを終えた段階で完了する。指揮者はリハーサルを通じて、曲の精神的解釈(=音楽に表現されている抽象的概念)及びそれを実現する為の技術的解釈(細部のテンポ、音量、音価、音色等)の全てを、オーケストラに伝授する。これらの情報量は膨大で、仮に手が8本あったとしても、リアルタイムに伝え切れるものではない。指揮は、手旗信号ではない。聴衆はよく、「誰某の棒のテクニックによって、これこれこのような音楽が生み出されている」などと言うが、見当はずれである。だいいち、オーケストラの演奏者はコンサートの本番において、始終指揮者を注視してなどいない。せいぜい視界の端に捉えている程度である。演奏者はほとんどの時間帯、同僚の出している「音」に集中している。本番で演奏者が指揮者を注目するのは、音の出始めとテンポの変わり目、音の消え際ぐらいのものだ。
指揮者がことさらに英雄的な身振りをしなくても、優れたオーケストラは、リハーサルで伝えられた音楽的解釈を、忠実に実現する。指揮者が拳を掲げてぶるぶる震わせなくても金管楽器は咆哮するだろうし、左手を小刻みに揺さぶらなくても弦楽器は情熱的なヴィブラートを奏でるだろう。爺さんが恍惚の表情を作って見せてくれなくても、オーケストラは甘い旋律を歌うだろうし、少ない髪を振り乱して眼を剥かなくても、激しさを表現するだろう。これらは全て、リハーサルで既に演奏者に伝えられたものだからである。聴衆がしばしば「感動」するこれら指揮者の身振りは、そのほとんどが、リハーサルを見ることの出来ない(仮に見たとしても何をやっているのかわからない)聴衆に向けてのパフォーマンスなのである。リハーサルで「俺が伝えた、仕切った」という事実を、指揮者は聴衆の眼前で象徴的に演じているのである。ベンチを飛び出して4thオフィシャルの制止も顧みずテクニカルエリアを逸脱し、大観衆の騒音に掻き消され選手に聞こえるはずのない指示を、大きな身振りと怒声で与えようとしているサッカーチームの監督と同じだ。
ならば、コンサート本番での指揮者は無用の長物なのか?そうではない。指揮者は舞台上で棒を振ることにより、残りの1割の仕事をしている。それは何か?それは、以下の「3つの “re” 」である。
“remind”・・・演奏者に対して、リハーサルで伝えた大切なニュアンスを「思い出させる」
“reinforce”・・・オーケストラの力を120%まで引き出す為に、本番ならではの「勢いをつける」
コンサート本番における指揮者の、これら3つを目的とする以外の身体活動は、全て聴衆に向けての視覚的パフォーマンスであり、音楽的には無駄なものである。
前置きが長くなった。本題に入ろう。カルロス・クライバーは「振らない指揮者」として有名だった。おそらく完全主義者であった彼は、極く限られたレパートリーのみしか「振らない指揮者」であったし、ただでさえ少ないコンサートをしばしばキャンセルする、という意味でも「振らない指揮者」であった。特定のオーケストラの音楽監督に就任することは無く、「ベートーヴェン交響曲全集」をリリースすることなど、決して無かった。さらに、本番での指揮においても、曲の途中で文字通り棒を振ることをやめてしまう(音楽を止めるのではない)のであった。聴衆の眼には、この上無く個性的な指揮者として映ったことだろう。
しかしながら本当のところ、 C. クライバーの指揮は、常に基本に忠実であり、必要にして十分なものだった。曲の途中で棒振りを止めるのは、その部分で棒を振る必要が無いからだ。「振らない指揮者」は、言い換えれば「音楽的に無駄なことをしない指揮者」なのである。聴衆には珍奇に見えただろうが、演奏者にとって C. クライバーの指揮は、極めて見易く、極めて理に適ったものであった。
ここに一枚のレーザーディスクがある。「ベートーヴェン 交響曲第7番」1983年、コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏を収めたものである(写真はDVD盤)。
冒頭、拍手によって迎えられた C. クライバーは、背筋を伸ばしてただ指揮台に立つ。威厳を込めて楽団を睨め回すこともなければ、頭を垂れてしばし黙想することもない。楽員達が楽器を構え、 C. クライバーが1拍、大きくはっきり空振りすると、オーケストラはAメジャーの和音を心地よく鳴らして、第一楽章が始まる。テンポは原譜の指示通りである。不必要に揺れることのないインテンポを、 C. クライバーはシンプルに振る。重力に委ねて振り下ろし、見えない机の上で跳ね返るように振り上げる。振幅の距離で音量を表し、2点間の運動の速度でアーティキュレーションを表す、という、基本通りの指揮法である。6小節目からかっちりと叩き始めることにより、演奏者達は4分音符に内包された最小単位のビートを共有し、2小節後に登場する16分音符の連なりが「レギュレート」される。左手の繊細かつ大胆な動きで、音符ひとつひとつの性格と意味が、オーケストラに対して「リマインド」される。
60小節目からの16分音符が、来るべき6/8拍子の音価を予感させて、ヴィヴァーチェ。4小節間でテンポの変化とクレッシェンドを統制し、フルートによる第一主題を招き入れれば、もう大丈夫。 C. クライバーが振るのを止めてしまうのは、こんな時だ。8小節の間、腕を下ろしてバトンをおさめ、にこやかに聴き入っている。滑らかにクルージングしている時、ドライバーは足をアクセルの上に軽く乗せておくだけでよい。チームにリズムが生まれている時、監督はベンチに腰を下ろし、見守っていればよい。棒を振る必要など無いのである。
C. クライバーは、本当にこの音楽を楽しんでいるようだ。スフォルツァンドを煽り、ホルンの誇らしく高らかな雄叫びを全奏と共に楽しんだ後、弦と木管のコール&レスポンスによるクレッシェンドを先導する彼の動きは、まるで草原を駆ける騎手のようだ。駿馬は乗り手の幸福を共有することにより、より生き生きと走る。こうしてオーケストラは「リインフォース」されてゆく。
第2楽章を、重苦しい葬送行進曲として扱う指揮者も多いが、カルロス・クライバーのそれは、どこか軽妙さすら漂わせる、なだらかで美しい「アレグレット」である。訃報が世界に発信されたのは、死去の6日後であった。カルロス・クライバー氏にとって、亡き夫人の故郷で迎えたその死が、静かなものであったことを信じたい。