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生きる為の「アスリート」達
Jan. 25, 2004
いきるための


人間の身体はもともと、楽器を演奏するように出来ていないし、サッカーをプレイするようにも出来ていない。人間の左手指は、6本の弦と22のフレットの上を1分間に500回を超えるスピードで動くようには出来ていないし、人間の脚は、30ヤード先の空間上の一点を射抜くようにボールを蹴ったり、それをぴたりと止めたりするようには出来ていない。演奏家やスポーツ選手は、もともとそうは出来ていない身体器官を、目指す運動行為に最適化させようとし、もともとは繋がっていない神経を、繋げようとする。その為には、運指練習やボールリフティングなどの基礎訓練を毎日、ひたすら繰り返すしかない。休めば、その分後退する。私が、優れた演奏家や選手を尊敬するのは、彼等のプレイだけでなく、苦しさや痛みやもどかしさに負けることなく練習を続けてきた、その強靱な意志に対してである。

演奏家は楽器を演奏する為に、サッカー選手はサッカーをプレイする為に訓練と努力を続けるが、世の中には、生きる為に、これをはるかに上回る訓練と努力を続ける人達がいる。かつて持っていたある身体機能を事故や病気で失った人達、または、ある身体機能を持たずに生まれて来た人達である。かつては繋がっていた神経をもう一度繋げようとする訓練に伴うもどかしさは、もともと繋がっていないものを繋げようとするもどかしさとは較べ物にならないだろうし、自分の意志によらず手を使うことを永久に禁じられてしまった人の努力は、試合終了のホィッスルによって終わることがない。

彼等は皆、自分の身体をプレイする一流の演奏家であり、一流の選手・・・自分の身体機能を失った経験のない私は、そんな風に想像している。演奏家や選手の努力と、彼等の努力とに違いがあるとすれば、それは「自分以外の多くの人が出来ないことをやろうとする努力」か「自分以外の多くの人が出来ることをやろうとする努力」か、であろう。しかし、「敬意」の基準で言えば、その違いはほとんど問題にならない。なぜなら、敬意の対象は、その努力の目的や結果の希少性ではなく、その精神力だからである。